映画で知るコンゴ動乱 洋画「ジャドヴィル包囲戦 6日間の戦い」 ~攻撃第2波~

Subscribers:
1,480
Published on ● Video Link: https://www.youtube.com/watch?v=vdiW4vC-vAY



Duration: 4:09
20 views
1


▶動画の概要
コンゴ動乱について、映画を通じて知るという趣旨の動画です。

題材となる洋画は「ジャドヴィル包囲戦 6日間の戦い」

コンゴ国連軍(アイルランド部隊)に対するカタンガ側の攻撃第2波を扱った内容です。


▶映画のあらすじについて(ウィキペディアより)
映画は、コンゴのパトリス・ルムンバ首相が暗殺され、内戦が勃発するところから始まる。鉱物資源に恵まれたカタンガ州がモイーズ・チョンベの指揮の下で分離独立する中、国連事務総長ダグ・ハマーショルドはコナー・クルーズ・オブライエンを国連平和維持活動の責任者に任命する。ハマーショルドは、私的な意見としてカタンガの危機が潜在的に第三次世界大戦の引き金になる可能性があることをオブライエンに伝え、アイルランド人外交官に攻撃行動を取るよう命じた。

一方、アイルランド陸軍のパット・クインラン司令官は、ジャドヴィル近郊の国連施設に到着したアイルランド人平和維持軍の歩兵中隊を指揮していた。クインランは施設を調査した結果、攻撃を受ける可能性が高いと判断し、部下に塹壕を掘って防御のための戦闘態勢をとるように命令する。

最寄りの町で食料を購入していたクインランは、チョンベ政権に味方する鉱山会社に雇われたフランス人傭兵ルネ・フォークスと出会う。その後、ベルギー人入植者のマダム・ラフォンガニュの屋敷を訪ね、ジャドヴィルには世界で最も豊富なウラン鉱床があることを教えてもらう。

一方、オブライエンは国連軍に、エリザベートヴィルにあるカタンガ人が所有する政府の建物に対する攻撃を開始するように命じた。インドの平和維持軍が市内のラジオ局を占拠しようとしたところ、銃撃と手りゅう弾によって30人の非武装のカタンガ人が殺されてしまう。オブライエンはこの事件を隠ぺいするように命令する。

その報復として、フォークスはジャドヴィルへの攻撃命令を受ける。フォークスの指揮下にあるカタンガ軍と傭兵がアイルランド軍を攻撃し、包囲する。停戦中、フォークスはクインランに降伏を執拗に要求する。

クインランは拒否し、彼の隊はカタンガと傭兵の軍隊によって繰り返し攻撃される。彼らは合計300人の敵兵士を殺し、1,000人の敵兵士を負傷させたが、アイルランド人の死者は0人、負傷者はわずか16人だけだった。

幾度となく繰り返される戦闘の末、アイルランド軍は弾薬が尽きて、フォークの軍隊に降伏せざるを得なくなった。彼らはカタンガの刑務所に約1か月間拘留された後、捕虜交換で解放され、帰国を許された。


▶国際連合コンゴ活動について(ウィキペディアより)
国際連合コンゴ活動はコンゴ共和国(コンゴ・レオポルドヴィル、後のザイール・現在のコンゴ民主共和国)に展開した国際連合平和維持活動。国際連合安全保障理事会決議143に基づくものであり、コンゴ動乱に際しコンゴ民主共和国へ国際連合が軍事援助を行い、ベルギー軍を撤退させ、その他の傭兵などの軍事組織からのコンゴ共和国の独立と内戦の阻止を任務としていた。

1960年6月30日に独立したコンゴ共和国は、独立当初より政情不安定であった。ベルギー領コンゴには治安武装組織として公安軍が編成されていたが、これは士官のほとんどがベルギー人であった。ベルギーは、独立にあたり士官養成や援助を行なわなかったため、独立直後には公安軍の指揮が麻痺する事態となった。この事態により、7月5日には公安軍兵士は現地在住白人を襲撃するようになった。これを見たベルギー政府は自国民保護を理由に軍事介入を決意し、コンゴ共和国の要所を制圧した。これに呼応して、ベルギーの支持を受けたカタンガ州がモイーズ・チョンベの指導の下、7月11日に分離独立を宣言してカタンガ国が成立した。

これらの動きに反発したコンゴ共和国首相のパトリス・ルムンバは7月12日に国際連合へ支援を要請した。これに応え、国際連合安全保障理事会は7月14日に安保理決議143を採択した。決議143では、ベルギー軍のコンゴ共和国からの撤退を求め、コンゴ国軍が治安維持を行なえるようなるまでコンゴ共和国と協議の上、各国から軍事援助を行なえる手段を取ることを国際連合事務総長に求めた。ヨーロッパとアフリカを中心に兵力が要請され、順次コンゴ共和国へと投入、国連軍(コンゴ国連軍とも呼ばれる)が編成された。この動きは決議145でも確認された。ベルギー軍はコンゴ共和国から順次「撤退」を開始し、国連軍に交代し、カタンガ国内へも独立問題へ関与しないことを条件に進駐した。

1961年に入ると、カタンガ国政府は豊富な鉱物資源による経済力と一部西側勢力による支援を受け、ベルギー人将校を中心とした傭兵を雇い入れ武力を強化してきた。これらはカタンガ憲兵隊 (Katangan gendarmerie) として組織された。他にも中央政府に反発する勢力があり、コンゴ国内は四分五裂となっていた。1961年1月にルムンバが殺害されると、国際世論はルムンバ派の支持に動き、1961年2月21日の決議161は、内戦停止のための適当な措置を直ちに取ることを求め、外国軍や傭兵勢力のコンゴ共和国国内からの撤退を求めた。国連軍も増強され、1961年7月には兵力約2万名まで増強された。8月に国連軍はランパンチ作戦を実施し、カタンガ憲兵隊を武装解除し、外国人傭兵を逮捕・国外追放にした。9月に実施したカタンガ国政府幹部の逮捕を目指すモーソー作戦 (Operation Morthor) はカタンガ側が警戒していたこともあり、失敗に終わった。カタンガ側は航空兵力により、アイルランド部隊を包囲するなど国連軍は苦戦した。9月17日には、調停活動中の国際連合事務総長のダグ・ハマーショルドが北ローデシアにて飛行機事故で死亡している。12月に入り、国連軍はカタンガ憲兵隊へ再度攻勢を掛けた。スウェーデンの戦闘機部隊の支援を受けた国連軍は、カタンガ憲兵隊へ打撃を与えることに成功した。1962年中は政治交渉が続けられたが、12月から1963年1月にかけて国連軍が攻勢を実施、カタンガの要所を占拠し、チョンベは亡命し、カタンガ憲兵隊は崩壊した。コンゴ動乱は一時収束した。

ONUC/国連軍は1963年2月から順次撤退を開始した。コンゴ政府が駐留を望んだことにより、完全撤退は1964年6月30日のこととなった。ONUCは兵員245名、文民スタッフ5名の犠牲者を出している。


▶カタンガ国について(ウィキペディアより)
カタンガ国は、1960年7月11日にカタンガ部族連合(CONAKAT)指導者モイーズ・チョンベがコンゴ共和国(現コンゴ民主共和国)からの分離独立を宣言して成立させた国家である。カタンガ新政府は支配地域の住民から満足な支持を得られず、特にルバ族が居住する北部においてその傾向が顕著であった。現在はカタンガ州としてコンゴ民主共和国の一部となっている。

独立宣言はベルギー政府と密接な関係を持つ大企業及び6,000以上の兵力のベルギー軍に後援されて行われた。カタンガはコンゴの最も豊かで開発された地域の一つだった。この地域が離脱した結果、コンゴ共和国は政府の収入の大部分を失うことになった。チョンベ指揮下のカタンガ憲兵隊とは別に、他国出身の訓練された白人から成る傭兵部隊が編成された。


▶コンゴ動乱について(ウィキペディアより)
コンゴ動乱は、1960年6月30日にベルギー領コンゴがコンゴ共和国(コンゴ・レオポルドヴィル、現在のコンゴ民主共和国)として独立した直後に勃発した反乱から始まる混乱である。

1960年7月11日に、旧宗主国のベルギーから支援されたモイーズ・チョンベは、この混乱の拡大に乗じて南部カタンガ州がカタンガ国として分離独立することを宣言したため、混乱を収拾するためにアメリカ合衆国とソビエト連邦の一致で国際連合安全保障理事会決議143が採択されてコンゴ国連軍が投入された。しかし、国際連合がカタンガへの介入に消極的であったことから初代首相のパトリス・ルムンバが支援を求めてソ連に急速に接近し、これがアメリカ寄りの初代大統領ジョゼフ・カサブブとの対立を生んだ。

他方、ジョゼフ=デジレ・モブツは1960年9月14日、政治状況の打開を口実として無血クーデターを起こし、ルムンバも自宅軟禁下に置かれた。モブツによって、カタンガのチョンベの元に送り込まれたルムンバは1961年1月17日に処刑された。1961年9月18日には、カタンガ側との仲介を試みた国連事務総長ダグ・ハマーショルドが飛行機墜落により事故死するという悲劇も発生した。

ハマーショルドの死後、国連は新しく選ばれた事務総長ウ・タントの下、カタンガに積極的に介入する方針に転換し米ソ双方の支持を取り付けた(国際連合安全保障理事会決議169)。1963年1月21日に、コンゴ国連軍がチョンベ派の最後の拠点を制圧したことで、カタンガの分離活動は沈静化に向かった。次いで毛沢東主義に感化されて左傾化した旧ルムンバ派の一部が、シンバの反乱を引き起こして、1964年7月末からコンゴ中部及び東部で急速に勢力を拡大したが、スタンリーヴィルに監禁された人質を救出する目的で、1964年11月24日からアメリカとベルギーが合同で展開したドラゴン・ルージュ作戦によってシンバの反乱軍勢力は大打撃を受け、その直後に崩壊した。

その後は、カサブブと、亡命先から帰国して暫定首相に就任したチョンベとの間で新たな政治的対立が生まれたが、1965年11月25日に、モブツが政治状況の打開を口実として二度目の無血クーデターを起こして権力を掌握し、独立以来続いていた混乱は事実上終結した。このコンゴ動乱は、冷戦を主導したアメリカとソ連による代理戦争でもあり、動乱の期間中に、約10万人が殺害されたと見られている。


★★この動画の再生リスト(コンゴ動乱)★★
https://youtube.com/playlist?list=PLIElwyhknb6SOi5WxO8LxkbJyRSBl6L9a&si=lF_KQN4BReXh-6Sm


▶視聴者様へのお願い
今後の動画作成のモチベーションアップにつながりますので、ご意見・ご感想等を投稿していただければ幸いです。

また、よろしければツイッターへの書き込みとフォローもよろしくお願いします。
→ ツイッター: https://twitter.com/elza1003

#コンゴ #国連軍 #空軍少尉 #カタンガ #憲兵隊 #傭兵 #ジャドヴィル #1961年




Other Videos By Second Lieutenant Elza Lomashka


2023-10-02映画で知るコンゴ動乱 洋画「ルムンバの叫び」 ~首相職を解任されたルムンバ~
2023-09-30映画で知るコンゴ動乱 洋画「ルムンバの叫び」 ~米国のクーデター工作~
2023-09-29特番で知るコンゴ動乱(シンバの反乱) 特番「さらばアフリカ」 ~空の傭兵~
2023-09-29映画で知るコンゴ動乱 洋画「ジャドヴィル包囲戦 6日間の戦い」 ~一時停戦、身柄搬送、罠~
2023-09-29映画で知るコンゴ動乱 洋画「ルムンバの叫び」 ~処刑の要因…ソ連への援助要請~
2023-09-28特番で知るコンゴ動乱(シンバの反乱) 特番「さらばアフリカ」 ~兵士への給与:略奪する権利~
2023-09-27記録映像で知るコンゴ動乱 記録映像「レオポルドヴィルの避難民」 ~国連軍ギニア部隊の到着~
2023-09-27映画で知るコンゴ動乱 洋画「ルムンバの叫び」 ~ベルギー軍、激高の白人被害者~
2023-09-26記録映像で知るコンゴ動乱 記録映像「レオポルドヴィルの避難民」 ~ベルギー軍空挺部隊の到着~
2023-09-24記録映像で知るコンゴ動乱 記録映像「レオポルドヴィルの避難民」 ~避難中の白人避難民~
2023-09-23映画で知るコンゴ動乱 洋画「ジャドヴィル包囲戦 6日間の戦い」 ~攻撃第2波~
2023-09-23映画で知るコンゴ動乱 洋画「ルムンバの叫び」 ~カタンガでの着陸拒否~
2023-09-22映画で知るコンゴ動乱 洋画「ルムンバの叫び」 ~公安軍から国民軍に改編~
2023-09-22映画で知るコンゴ動乱 洋画「ジャドヴィル包囲戦 6日間の戦い」 ~国連軍に対する報復攻撃~
2023-09-20映画で知るコンゴ動乱 映画「ジャドヴィル包囲戦 6日間の戦い」 ~国連軍の作戦で民間人に被害~
2023-09-20映画で知るコンゴ動乱 洋画「ジャドヴィル包囲戦 6日間の戦い」 ~酒場で白人傭兵と遭遇~
2023-09-19映画で知るコンゴ動乱 洋画「ルムンバの叫び」 ~公安軍最高司令官を更迭~
2023-09-18映画で知るコンゴ動乱 洋画「ジャドヴィル包囲戦 6日間の戦い」 ~国連軍アイルランド部隊の到着~
2023-09-18映画で知るコンゴ動乱 洋画「ルムンバの叫び」 ~白人司令官「独立前=独立後」~
2023-09-17映画で知るコンゴ動乱 洋画「ルムンバの叫び」 ~公安軍兵士の反乱~
2023-09-17映画で知るアイルランド 洋画「ジャドヴィル包囲戦 6日間の戦い」 ~コンゴ国連軍に兵員供出~



Tags:
コンゴ動乱
1961年
アイルランド
国連軍
ONUC
カタンガ
憲兵隊
傭兵
ジャドヴィル
9月