映画で知るコンゴ動乱 洋画「ルムンバの叫び」 ~首相職を解任されたルムンバ~
▶動画の概要
コンゴ動乱について、映画を通じて知るという趣旨の動画です。
題材となる洋画は「ルムンバの叫び」
ラジオ放送で大統領からの首相職解任を知ったルムンバが、議会において巻き返し演説をおこなう内容です。
▶中央政府の分裂について(ウィキペディアより)
ルムンバがソ連に支援を要請した結果、政府内は分裂してしまい、西側諸国が彼を権力から取り除くように圧力を強めることにも繋がった。加えて、モイーズ・チョンベとアルベール・カロンジの両方がカサブブがルムンバの中央集権主義に反対する穏健主義者かつ連邦主義者であると考えて、離脱問題を解決するために彼に対話を呼び掛けた。その一方で、モブツは他国からの援助を獲得し、特定の部隊員や将校を昇級させることで彼らからの忠誠を確保して国民軍の支配権を掌握した。
アメリカに促される形でカサブブは1960年9月5日に南カサイにおける虐殺を口実として、一方的にルムンバの首相職解任を全国ラジオを通じて発表した。ハマーショルドの側近でアメリカ人のONUC臨時代表アンドリュー・コーディアは自分に与えられた権限を活用し、ニュースに反応したMNC-Lが団結して行動を起こすことを阻止するためにラジオ局の封鎖を指揮した。両議院はルムンバを支持し、カサブブを非難した。議会から信任を得たルムンバは対抗してカサブブを大統領職から解任しようとしたが、憲政上の危機を誘発することになることになるこの行為については反対され、無効となった。
▶コンゴ動乱について(ウィキペディアより)
コンゴ動乱は、1960年6月30日にベルギー領コンゴがコンゴ共和国(コンゴ・レオポルドヴィル、現在のコンゴ民主共和国)として独立した直後に勃発した反乱から始まる混乱である。
1960年7月11日に、旧宗主国のベルギーから支援されたモイーズ・チョンベは、この混乱の拡大に乗じて南部カタンガ州がカタンガ国として分離独立することを宣言したため、混乱を収拾するためにアメリカ合衆国とソビエト連邦の一致で国際連合安全保障理事会決議143が採択されてコンゴ国連軍が投入された。しかし、国際連合がカタンガへの介入に消極的であったことから初代首相のパトリス・ルムンバが支援を求めてソ連に急速に接近し、これがアメリカ寄りの初代大統領ジョゼフ・カサブブとの対立を生んだ。
他方、ジョゼフ=デジレ・モブツは1960年9月14日、政治状況の打開を口実として無血クーデターを起こし、ルムンバも自宅軟禁下に置かれた。モブツによって、カタンガのチョンベの元に送り込まれたルムンバは1961年1月17日に処刑された。1961年9月18日には、カタンガ側との仲介を試みた国連事務総長ダグ・ハマーショルドが飛行機墜落により事故死するという悲劇も発生した。
ハマーショルドの死後、国連は新しく選ばれた事務総長ウ・タントの下、カタンガに積極的に介入する方針に転換し米ソ双方の支持を取り付けた(国際連合安全保障理事会決議169)。1963年1月21日に、コンゴ国連軍がチョンベ派の最後の拠点を制圧したことで、カタンガの分離活動は沈静化に向かった。次いで毛沢東主義に感化されて左傾化した旧ルムンバ派の一部が、シンバの反乱を引き起こして、1964年7月末からコンゴ中部及び東部で急速に勢力を拡大したが、スタンリーヴィルに監禁された人質を救出する目的で、1964年11月24日からアメリカとベルギーが合同で展開したドラゴン・ルージュ作戦によってシンバの反乱軍勢力は大打撃を受け、その直後に崩壊した。
その後は、カサブブと、亡命先から帰国して暫定首相に就任したチョンベとの間で新たな政治的対立が生まれたが、1965年11月25日に、モブツが政治状況の打開を口実として二度目の無血クーデターを起こして権力を掌握し、独立以来続いていた混乱は事実上終結した。このコンゴ動乱は、冷戦を主導したアメリカとソ連による代理戦争でもあり、動乱の期間中に、約10万人が殺害されたと見られている。
★★この動画の再生リスト(コンゴ動乱)★★
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