Gary Moore 『The Loner』 流れるTAB譜を見ながらの演奏🎸 ゲイリー・ムーア ギターカバー GUITAR COVER ※Play it to see TAB music
チョーキングが難しい曲ですが、
テンポはゆっくりな曲なのでTAB譜を見ながら演奏もしやすい曲です(^^♪
ですがゲイリームーアのようにはなかなか弾けません💦
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【🎸年代・ジャンル問わずリクエストもお受けしてます(^^♪】
【使用ギター🎸】
・シェクター ダイアモンド ヘルレイザー C1 FR ホワイト
24フレット・フロイドローズ搭載モデル/SCHECTER /Hellraiser C-1 FR WHT
・アイバニーズ RG350EX/Ibanez RG350EX
・ワッシュバーン RX10 /Washburn RX10
・フェルナンデス 型番不明/FERNANDES
【主な使用機材🔊】
エフェクター/アンプシミュレーター
・BOSS/GT-1
・ZOOM/G2.1Nu
・VOX/ToneLab ST
・Ibanez Tubescreamer TS9(オーバードライブ)
・electro-harmonix MICRO METAL MUFF(ディストーション)
ギターアンプ♪
・ブラックスター ID:CORE10 V2/Blackstar ID:CORE10 V2
・ブラックスター FLY3/Blackstar FLY3
・レイニー LG20R/Laney LG20R
ロベルト・ウィリアム・ゲイリー・ムーア(Robert William Gary Moore, 1952年4月4日 - 2011年2月6日[1])は、北アイルランド出身のロック・ギタリスト、歌手、作曲家。
1974年のシン・リジィ参加で有名になり、以降1980年代はハードロック、フュージョン等を中心に、1990年代以降はブルースロックを軸に活躍。
ベルファストに生まれる。父親は地元で有名なプロモーターでクラブの経営などに携わっていた。
小学生の頃ピアノを習い始めるが教師と合わず挫折。10歳の頃にギターを始める。当初はシャドウズのコピーに明け暮れるが、やがてジェフ・ベック、エリック・クラプトン、さらにジミ・ヘンドリックスなどの影響を受け始める。特にピーター・グリーンからは強い衝撃を受け、プロギタリストになる決意を固める。
スキッド・ロウ時代
1966年、The Beat Boysなるグループで、父親の経営するクラブにレギュラー出演する。当時14歳。
1968年、交通事故で演奏ができなくなったギタリストの代役として、ベルファストのアマチュア・グループ、ザ・メソッドに加入。ダブリンをツアー中に、ビートニク・シンガー、ブラッシュ・シールズに誘われスキッド・ロウに加入。当時のメンバーはブレンダン "ブラッシュ" シールズ、ノエル・ブリッヂマン、フィル・ライノット、ムーア。
1969年、スキッド・ロウはアイルランドのソング・ラベルから、フィル・ライノットをボーカルに据えたシングル "New Places, Old Faces"/"Misdemeanour Dream Felicity" でメジャー・デビュー。ムーアが作曲した "Misdemeanour Dream Felicity" が彼のキャリアにおいて最初のシングルとなる。フィル・ライノットを解雇後、フリートウッド・マックの前座を務めた際にピーター・グリーンに気に入られ、フリートウッド・マックを手掛けていたクリフ・ディヴィスにCBSとの契約を勧められる(1983年発売された "DUBLIN GAS COMY. COOKER&METER FACTORY" はその時のデモ・テイクである)。
1970年、「キング・クリムゾンへのアイルランドからの回答」として売り出されたスキッド・ロウは、アルバム『SKID』をリリースする。アメリカツアーも2回敢行、2度目のアメリカ・ツアーではフィルモアにも出演、グレイトフル・デッドのオープニング・アクトの他、オールマン・ブラザーズ・バンドのツアーのサポートも行なう。
1971年夏、34時間でレコーディングされたセカンド・アルバム『34 Hours』リリース。ヨーロッパへのツアー、3作目のアルバムを録音後、同年秋スキッド・ロウを脱退。
1972年、ロンドンでザ・ゲイリー・ムーア・バンド (The Gary Moore Band) を結成、1973年5月、初のリーダー・アルバム『グラインディング・ストーン』をCBSからリリースするもセールスには恵まれずグループは自然消滅。
シン・リジィ参加
1974年1月、スキッド・ロウ時代の旧友フィル・ライノットに乞われて数ヶ月間、ギタリストのエリック・ベルの代役としてシン・リジィの活動を行う。また3月には、グループのデッカ・レーベルでの最終レコーディングとなるシングル "Little Darlin/Sitamoia" の制作にも参加する。
在籍中のライブでは既にグループの次作 "Night Life" の収録曲 "Still in Love With You","Showdown","It's Only Money" などを演奏しており、4作目のデモ・レコーディングも残した。なお、シン・リジィが新たに契約したヴァーティゴ・レーベルのアルバム "Night Life" では "Still in Love With You" 1曲のみ「ゲスト・ギタリスト」としてのみクレッジットされている。
同年5月、コロシアムのドラマー、ジョン・ハイズマンとともに新たなバンドを結成すべく人選を開始。ドン・エイリー、ニール・マーレイ、ジョン・モールらとともにジャズ・ロック・バンドコロシアムIIを結成し、1976年から1977年にかけて3枚のアルバムを残す。
1977年1月、再び、ブライアン・ロバートソンの代役として、シン・リジィに参加、クイーンとのアメリカ・ツアーに同行する。
1978年8月、シン・リジィに正式加入、コロシアムIIに在籍したまま、ソロ名義でMCAと契約し、9月、初のソロ名義作品『バック・オン・ザ・ストリーツ (Back on The Streets)』をリリース、UK・アルバム・チャートで70位を記録する。自作のインストゥルメンタル曲の他、ライノットとの共作曲を収録。なかでもピーター・グリーンから譲り受けたギブソン・レスポール・スタンダード(1959)による演奏が印象的な「パリの散歩道 (Parisienne Walkways)」はUKシングル・チャート8位(最高位)を記録する。12月、シン・リジィ、『ブラック・ローズ (Black Rose)』のレコーディング開始する。
1979年2月、『ブラック・ローズ (Black Rose)』リリース。 7月4日、US・ツアー中にマネージメントに嫌気をさしてグループを離脱、ロサンゼルスにて元ディープ・パープルのグレン・ヒューズと、シン・リジィのサポートを務めたことのあるマーク・ノーシーフとで活動を開始する。
日本でのブレイクまで
同年9月MCA最後のシングル「Spanish Guitar」をリリース。
グレン・ヒューズとのグループは頓挫したものの、元CBSのディレクター、ドン・アーデン(シャロン・オズボーンの父親)が立ち上げたレーベル、ジェット・レコードと契約。「スーパー・ギタリストの新グループ」名目のもと、複雑なリズムを多用したバンド、G-Forceを結成。メンバーはマーク・ノーシーフ(元エルフ、イアン・ギラン・バンド)、トニー・ニュートン(アラン・ホールズワースの在籍したニュー・トニー・ウィリアムス・ライフ・タイムのベーシスト)、シンガーのウィリー・ディ(ウィリー・ダファーン)(キャプテン・ビヨンド)。
1980年5月、イギリスでアルバム『G-Force』をリリース。同年6月、ホワイトスネイクのサポート・アクトとしてイギリス・ツアーを行うが、グループ活動は旨く行かずに停止させる。アルバムはアメリカン・パワー・ポップ風なサウンドを狙ったが、アメリカ国内での配給先を決定する前に、この1枚でG-Forceは解散、予定していた8月のレディング・フェスティバルへの出演をキャンセルした。ジェット・レコードは同年11月にマーキー・クラブでライヴ・レコーディングを行う。メンバーはドン・エイリー、アンディー・パイル、ケニー・ドリスコール、そしてアメリカから招いたトミー・アルドリッジでの録音を行う。
1981年、スタジオ・アルバム制作にとドン・エイリー、ジミー・ベイン、トミー・アルドリッジ、シャーリー・ヒューンで行なったが、別の日本からのオファーによるドラム奏者、コージー・パウエルのソロ・アルバム制作を同時に行なったことが原因で、ジェット・レコードとの間の契約違反事項となりムーアのソロキャリアはしばらくの間、問題への対処のため活動を制限されることを余儀なくされた。
Jetとの契約解消のためにソロ活動を封じ、同じマネージメントに所属をしていたグレッグ・レイクのソロ・プロジェクトに参加する必要があった。レイクの復活ツアー・メンバーにムーアがバンマスを任されて、ウッドストックでジョー・コッカーの仕事をしたトミー・アイアーがサポートした。ほかにテッド・マッケンナ(センセーショナル・アレックス・ハーヴェイ・バンド)、レイクが推薦したトリスタン・マーゲッツが参加。ムーアとレコーディング・メンバーはプロモーション・ツアーに同行、ムーアは楽曲を提供することで、レコーディングの報酬をえて、かねてからハード・ロック・ビジネスのマーケットに興味を持っていたサー・リチャード・ブランソンのヴァージン・レコードが裁判費用を提供してアーデンとの契約を解消1982年、これによりヴァージン・レコードと契約してイアン・ペイスを加えたバック・バンドを売りにレディング・フェスティバルに4年越しでソロ・アーティストとして登場し、同年3月録音にとりかかったレコーディングは9月、『コリドーズ・ オブ・パワー (Corridors Of Power)』(旧邦題『大いなる野望』)としてリリースして最高位UK30位を記録した。
1983年1月に初来日公演。チケットは即日完売し、追加公演も組まれた。来日メンバーはイアン・ペイス、ニール・マーレイ、ドン・エイリー、ジョン・スローマンという豪華な顔ぶれであった。プロモーションとしてテレビ朝日の人気音楽番組『ベストヒットUSA』に出演、シンコー・ミュージックから『100% Gary Moore』なる特集/スコア本も発刊された。
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