特番で知るキューバ危機 特番「冷戦」 ~ソ連が核の撤去に同意~ 【日本語吹替】
▶動画の概要
キューバ危機について、特番を通じて知るという趣旨の動画です。
題材となる特番は「冷戦」
ソ連がキューバから核ミサイルを撤去したことにより、核戦争の危機が終結する内容となっています。
▶モスクワ放送での回答について(ウィキペディアより)
この日の朝、モスクワではフルシチョフに悪い情報が入った。前述の米軍偵察機の撃墜があり、ワシントン時間で夕方にケネディ大統領が新たな声明を発表する準備をしているという観測があり、そこへカストロからの書簡が届いた。カストロからはアメリカへの核攻撃を求めていると解釈できる内容でこれはフルシチョフを怒らせた。フルシチョフも事態が制御不能になりつつあることを恐れていた。
モスクワ時間12時に幹部会を招集して、事態が急速に進展する中で、ケネディからの新しい書簡とドブルイニン駐米大使から外務省を通じて指導部に宛てられた報告が届いていた。フルシチョフはこのチャンスを逃すことなくその場で返信を口述した。そしてアメリカにこの返信がすぐに届くように前回と同じくモスクワ放送を通じて早急に読み上げるよう命じた。この声明に関するニュースはまもなく世界に広がった。そしてマリノフスキー国防相はミサイル基地解体をブリーエフ司令官に命じた。
▶カストロの怒りについて(ウィキペディアより)
他方ハバナではカストロが激怒していた。フルシチョフから何ら事前の通告もなく、彼はこれを降伏とみなした。キューバを攻撃および侵攻しないという約束のもとで自国に搬入したミサイルを撤去する空手形になるかも知れないものであり、キューバの安全保障を取引の材料にされたカストロは我が耳を疑った。この日フルシチョフからのカストロ宛て書簡が届き、自制を求めるとともにアメリカの攻撃が差し迫っていたというカストロの考えを肯定した上でケネディによるキューバ不侵攻の確約は大きな勝利であり、これによりキューバの安全が確保されたという評価を押し通して協議する時間が無かったのだと主張した。
この書簡には、トルコのミサイルの撤去とキューバのミサイルの撤去とが取り引きされたことには触れなかった。カストロはその後、ミサイル撤去の際に様々な行動をすることになった。後のフルシチョフの回想によれば、アメリカの度重なる偵察と海上封鎖に興奮したカストロはフルシチョフにアメリカを核攻撃するように迫ったとされ、ソ連の方も、核戦争をも厭わない小国の若手革命家と次第に距離を置くようになっていった。
後の歴史学者の間では、当時のソ連第一副首相のアナスタス・ミコヤンからの強い進言がキューバの核ミサイル撤去をフルシチョフに踏み切らせたと考えられている。
▶キューバ危機について(ウィキペディアより)
1962年夏、ソ連とキューバは極秘裏に軍事協定を結び、キューバに密かに核ミサイルや兵員、発射台、ロケット、戦車などを送った。アメリカは偵察飛行で核ミサイル基地の建設を発見、直ちにキューバを海上封鎖し、核ミサイル基地の撤去を迫った。一触即発の危険な状態に陥ったが、当時のケネディ大統領とフルシチョフ第一書記とで書簡でやり取りし、最終的にソ連が核ミサイルを撤去してこの危機は終わった。また、これを期に米ソ間でホットラインの開設がなされ、不測の事態による軍事衝突を防ぐための対策が取られた。
危機の期間について定義があるわけではないが、アメリカ軍が空中偵察でミサイル基地を発見した1962年10月14日から、或いは大統領にその情報が入った10月16日からフルシチョフがミサイル撤去を伝えた10月28日までとすることが多い。しかしソ連が核ミサイルをキューバから撤去し、アメリカが封鎖解除したのは11月21日である。
「キューバ・ミサイル危機」とも呼ばれ、またこの1年半前の1961年4月の「ピッグズ湾事件」を「第一次キューバ危機」と呼び、この1962年10月の危機を「第二次キューバ危機」と呼ぶ場合がある。
★★この動画の再生リスト(キューバ危機【1962年】)★★
https://youtube.com/playlist?list=PLIElwyhknb6TrvdXwecwIY_Us8Dw5mG2n
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