特番で知るキューバ危機 特番「冷戦」 ~仮病、海上封鎖、空爆準備~ 【日本語吹替版】
▶動画の概要
キューバ危機について、特番を通じて知るという趣旨の動画です。
題材となる特番は「冷戦」
中間選挙に向けて応援演説に赴いていたケネディが病気名目でホワイトハウスに引き返すこと、及びキューバ問題への対処が海上封鎖であることを取り扱った内容です。
▶中間選挙に向けての応援演説について(ウィキペディアより)
中間選挙が11月初めに予定されており、その応援演説のため遊説があり、ケネディ大統領はこの日クリーヴランド、イリノイ州スプリングフィールド、そしてシカゴに行く予定であった。それらをキャンセルすると政府内での動きが感づかれる恐れがあったので、いつも通り行っていた。ジョンソン副大統領も同じでジョンソンは結局選挙遊説で会議に出ていないことが多かった。そしてケネディは軍部と朝に会議を行った。
▶封鎖と空爆について(ウィキペディアより)
10月19日午前の会議(大統領は中間選挙遊説で欠席)では2つのグループに分かれて海上封鎖と空爆について最も有力なシナリオを提示することにした。海上封鎖チームにはボール国務次官、アレックス・ジョンソン国務次官補、マクナマラ、ラスク、トンプソン顧問。空爆チームはロバート・ケネディ、アチソン元国務長官、ディロン財務長官、バンディ補佐官であった。午後の会議では全体会議を行い、アチソン元国務長官、ディロン財務長官、マコーンCIA長官、バンディ補佐官が空爆に賛成、ラヴェット元国防長官は封鎖に賛成した。ここでマクナマラの空爆を認めながら海上封鎖を優先させるべきとの意見とロバートの「会議で空爆と結論を出しても大統領は受け入れないだろう」との意見が通り、海上封鎖を実行し事態が進まない場合は空爆実施という折衷案がまとまった。
▶キューバ危機について(ウィキペディアより)
1962年夏、ソ連とキューバは極秘裏に軍事協定を結び、キューバに密かに核ミサイルや兵員、発射台、ロケット、戦車などを送った。アメリカは偵察飛行で核ミサイル基地の建設を発見、直ちにキューバを海上封鎖し、核ミサイル基地の撤去を迫った。一触即発の危険な状態に陥ったが、当時のケネディ大統領とフルシチョフ第一書記とで書簡でやり取りし、最終的にソ連が核ミサイルを撤去してこの危機は終わった。また、これを期に米ソ間でホットラインの開設がなされ、不測の事態による軍事衝突を防ぐための対策が取られた。
危機の期間について定義があるわけではないが、アメリカ軍が空中偵察でミサイル基地を発見した1962年10月14日から、或いは大統領にその情報が入った10月16日からフルシチョフがミサイル撤去を伝えた10月28日までとすることが多い。しかしソ連が核ミサイルをキューバから撤去し、アメリカが封鎖解除したのは11月21日である。
「キューバ・ミサイル危機」とも呼ばれ、またこの1年半前の1961年4月の「ピッグズ湾事件」を「第一次キューバ危機」と呼び、この1962年10月の危機を「第二次キューバ危機」と呼ぶ場合がある。
★★この動画の再生リスト(キューバ危機【1962年】)★★
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