特番で知るコンゴ動乱(シンバの反乱) 特番「さらばアフリカ」 ~元カタンガ大統領の復活~
▶動画の概要
コンゴ動乱(シンバの反乱)について、特番を通じて知るという趣旨の動画です。
題材となる特番は「さらばアフリカ」
かつてカタンガ共和国大統領であったモイーズ・チョンべが、コンゴ民主共和国政府首相として亡命先から帰還した内容です。
▶モイーズ・チョンべについて(ウィキペディアより)
モイーズ・カペンダ・チョンベは、コンゴ民主共和国の政治家。カタンガ州の分離独立を主張してカタンガ国の初代大統領に就任し、コンゴ動乱が泥沼化する原因を作った。
▶帰国と再度の亡命について(ウィキペディアより)
1964年1月以降、コンゴ国内の反政府勢力が武力闘争を激化させるに伴い、シリル・アドゥラ首相の内政手腕の欠如が露呈した。騒乱の早期平定を望むカサブブによってチョンベはスペインから呼び戻され、同年7月に首相として組閣に至る。しかし、再びカサブブとの対立が激化し、1965年10月に首相を解任された。同年12月、ジョゼフ・モブツによるクーデターが起き、チョンベは再びスペインへと亡命した。1967年には不在のまま死刑判決を受けている。
▶シンバの反乱について(ウィキペディアより)
長い政治危機によって中央政府に対する幻滅が広まった。首都では政争が蔓延って不安定な状況が続き、泥棒政治からの「第二の独立」の需要が高まった。「第二の独立」のスローガンはかつてルムンバ内閣で教育大臣を務めたピエール・ムレレら毛沢東思想を掲げるコンゴの革命家によって提唱された。コンゴの政情不安は反乱の拡大を助長してしまった。
コンゴの農村の混乱はムレレに率いられたルムンバ支持者によって扇動されたキンブンド族やペンデ族が引き起こした。1963年末にはコンゴの中部・東部地域は混乱状態となった。1964年1月16日にはクウィル州の都市、イディオファとグングにおいてクウィルの反乱も勃発した。暴動と混乱はキヴ州、更にはアルベールヴィルにまで広がり、コンゴの他の地域にも暴動が飛び火してしまい、ついにはより大規模なシンバの反乱が勃発した。反政府勢力は7月から8月にかけて保有する領土を拡大するために北方へ向けて急激な勢いで進撃を行い、この期間にポールタンパン、スタンリーヴィル、パウリス、リサラを一挙に制圧した。
「シンバ」(スワヒリ語でライオンを意味する)という名で知られた反政府勢力は大衆的であるが、平等を優先して全体的に裕福な社会の実現を目指す緩やかな社会主義的傾向に基づいた、漠然としたイデオロギーを持っていた。活動していた革命家の多くが反乱は政府が与えてくれなかった好機を提供してくれると期待した若い男性であった。シンバは新入隊員に魔術をかけたと教え、規範に従うことで弾丸を受けても死ななくなると信じさせた。シンバ反政府勢力は敵対者をこの世から消し去るために制圧した領土内で多数の残虐な殺害を犯し、人々を恐怖に陥れた。
シンバ反政府勢力はクリストフ・グベニエを大統領としてスタンリーヴィルに首都を置く新国家、コンゴ人民共和国を建国した。新国家はソ連や中国から軍事援助を受け、タンザニアを筆頭とする様々なアフリカ諸国からも支援された。キューバも戦術や教義についてシンバに助言する目的でチェ・ゲバラが率いる100人以上の顧問団を派遣して支援していた。
▶コンゴ動乱について(ウィキペディアより)
コンゴ動乱は、1960年6月30日にベルギー領コンゴがコンゴ共和国(コンゴ・レオポルドヴィル、現在のコンゴ民主共和国)として独立した直後に勃発した反乱から始まる混乱である。
1960年7月11日に、旧宗主国のベルギーから支援されたモイーズ・チョンベは、この混乱の拡大に乗じて南部カタンガ州がカタンガ国として分離独立することを宣言したため、混乱を収拾するためにアメリカ合衆国とソビエト連邦の一致で国際連合安全保障理事会決議143が採択されてコンゴ国連軍が投入された。しかし、国際連合がカタンガへの介入に消極的であったことから初代首相のパトリス・ルムンバが支援を求めてソ連に急速に接近し、これがアメリカ寄りの初代大統領ジョゼフ・カサブブとの対立を生んだ。
他方、ジョゼフ=デジレ・モブツは1960年9月14日、政治状況の打開を口実として無血クーデターを起こし、ルムンバも自宅軟禁下に置かれた。モブツによって、カタンガのチョンベの元に送り込まれたルムンバは1961年1月17日に処刑された。1961年9月18日には、カタンガ側との仲介を試みた国連事務総長ダグ・ハマーショルドが飛行機墜落により事故死するという悲劇も発生した。
ハマーショルドの死後、国連は新しく選ばれた事務総長ウ・タントの下、カタンガに積極的に介入する方針に転換し米ソ双方の支持を取り付けた(国際連合安全保障理事会決議169)。1963年1月21日に、コンゴ国連軍がチョンベ派の最後の拠点を制圧したことで、カタンガの分離活動は沈静化に向かった。次いで毛沢東主義に感化されて左傾化した旧ルムンバ派の一部が、シンバの反乱を引き起こして、1964年7月末からコンゴ中部及び東部で急速に勢力を拡大したが、スタンリーヴィルに監禁された人質を救出する目的で、1964年11月24日からアメリカとベルギーが合同で展開したドラゴン・ルージュ作戦によってシンバの反乱軍勢力は大打撃を受け、その直後に崩壊した。
その後は、カサブブと、亡命先から帰国して暫定首相に就任したチョンベとの間で新たな政治的対立が生まれたが、1965年11月25日に、モブツが政治状況の打開を口実として二度目の無血クーデターを起こして権力を掌握し、独立以来続いていた混乱は事実上終結した。このコンゴ動乱は、冷戦を主導したアメリカとソ連による代理戦争でもあり、動乱の期間中に、約10万人が殺害されたと見られている。
★★この動画の再生リスト(コンゴ動乱)★★
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