特番で知るアメリカ(北ベトナム外交) 特番「ベトナム戦争」 ~米国の甘言と北ベトナムの拒否~ 【日本語吹替】
▶動画の概要
アメリカの北ベトナム外交について、特番を通じて知るという趣旨の動画です。
題材となる特番は「ベトナム戦争」
北ベトナムによる南への関与を中止させるために、米国が経済援助を申し出た内容を取り扱っています。
▶リンドン・ジョンソンについて(ウィキペディアより)
リンドン・ベインズ・ジョンソンは、アメリカ合衆国の政治家。同国第36代大統領(在任: 1963年11月22日 - 1969年1月20日)。
1908年8月27日にテキサス州ストーンウォール(英語版)に誕生する。下院議員、上院議員、第37代副大統領、第36代大統領を歴任した。
1961年1月20日に民主党ケネディ政権の副大統領に就任し、1963年11月22日にケネディ大統領暗殺事件で大統領に昇格、政権を引き継いだ。リベラルとして知られたケネディに対して、南部テキサス州出身のジョンソンは民主党の中では保守派と目されていたが、大統領就任にあたって掲げた貧困撲滅と公民権の確立を骨子とする「偉大な社会 (Great Society) 」政策は、非常にリベラル色の強いものであった。
政権初期には公民権法の早期成立に向けて議会をまとめることに努め、議会との関係が円滑でなかったケネディに比べて巧みな議会工作で法案を可決させ、その他にも内政においては達成した政治課題が多く、ジョンソン政権は同じ民主党のルーズベルト政権と並んで「大きな政府」による社会福祉や教育制度改革、人権擁護を積極的に推進した政権であった。
しかし、外交政策ではケネディ政権から引き継いだベトナム戦争への軍事介入を拡大させ、国内に激しい反戦運動と世論の分裂をもたらした。
ケネディ暗殺後の1964年アメリカ合衆国大統領選挙では、ケネディへの同情票と昇格後1年間の政権の成果を評価する票で共和党候補を大差で破り、歴史的な大勝を果たした。しかし1965年からベトナム戦争の拡大で国の内外からの強い批判に身動きが取れなくなり、次の再選を目指した1968年アメリカ合衆国大統領選挙で民主党の大統領候補の指名を受けることが危ぶまれる状況となり、1968年3月31日、全米に向けたテレビ演説でそれまでのベトナム政策の劇的な転換を発表すると同時に大統領選挙に再出馬をしないことを表明、自らの政治生命に幕を引いた。
▶第二次インドシナ戦争(ウィキペディアより)
分断された南・北ベトナムの統一、ラオスにおける左右両派の主導権、カンボジアにおける左右両派の主導権をめぐって展開した戦い。ベトナム戦争、ラオス内戦、カンボジア内戦の総称。
▶ベトナム戦争の概要(ウィキペディアより)
ベトナム戦争は、当時南北に分断されていたベトナムで社会主義のベトナム民主共和国(北ベトナム)と資本主義のベトナム共和国(南ベトナム)が争った戦争であり、冷戦中に起こった資本主義と社会主義の代理戦争であるとされる。ベトナムの南北両国では以前から対立が続いており、南ベトナム国内では北ベトナムに支援されたゲリラである南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)が活動して南ベトナムの軍や警察などと争いが起こっていた。1964年8月2日にアメリカがトンキン湾事件を起こして参戦した事で一気に全面戦争に突入し、その後アメリカ軍が撤退し1975年4月30日に北ベトナム軍が南ベトナムの首都サイゴン(現在のホーチミン市)を陥落させるまで続いた。この戦争には南北両国やアメリカだけでなく、北ベトナムを支援するソ連や中国などの共産国や南ベトナムを支援する韓国やオーストラリアなどの反共国も参戦し、泥沼のゲリラ戦を行ったため多くの犠牲者を出す大変悲惨な結果となったためアメリカ軍は1973年に撤退した。なお、この戦争ではベトナムだけでなく、周辺諸国であるラオスやカンボジアも被害を受けている。これはそれぞれラオス内戦、カンボジア内戦と呼ばれており、1975年に3カ国とも社会主義化した事で終結した。
▶さらに知りたい人への参考リンク
【【トラウマ注意】小学生でもわかるヤバイ歴史・ベトナム戦争【修正再投稿版】】
https://youtu.be/uOxsl-qJdDI
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#アメリカ #ジョンソン #空軍少尉 #ベトナム #ホーチミン